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オホーツクつれづれ草

2016/02/09

清原は真の野球人ではなかった
 一線を踏み外した責任は重い


 「もし人生をもう一度新しく始めるとしたら、すでに生きてしまった人生は下書きで、もう一つが清書。何よりも自分自身を繰り返すまいと努力するだろう」
 ロシアの小説家チェーホフの言葉である。
 殆どの人は、人生で取り返しのつかない事をしでかすと、それが夢であれと思い、現実と知れば、生まれ変わって別の人生を送りたいと念じるだろう。
 どっこい、人生は二度ない。だから人は努力し、美しくも哀しくも生き、社会の秩序は守られるのだ。もし人生が二度あるとしたら、無責任な生き方をする人が巷(ちまた)にあふれるだろう。
 野球と言うスポーツで、高校生の時から光り輝き、プロ野球でも頂点を極める活躍をし、強烈な存在感を示した清原和博。覚せい剤を所持、使用の疑いで逮捕された。事件を知った人は、
「ファンだったのに、残念」
「信じたくない」
などと感想を言う。プロ野球関係者の中には
「罪を償って、その後の人生でまたホームラン・アーチを描いて欲しい」
 と語る人も居る。政治家や芸能人の中にも「実績のあった存在感のある選手だった。極めて残念。子供たちの夢を壊さないで」
 とコメントする人がいる。


脚光、転落の人生 「当然の結果」

 しかし、豊かな才能に恵まれ、社会で脚光を浴び、望む生活を送ってきた人が、踏み外してはならない禁断の一線を外した時、社会に与える影響は倍加する。そしてその結果責任は、途方もない重さをもって本人に降りかかる。当然である。「信じられない」「残念だ」「子どもの夢を壊さないで」などという甘言で彼を語るべきではない。
 彼は球界を代表する選手だった。しかし結局は社会の表舞台に立つ資格はなかった。人格が伴わない一人の野球人が、偽りの名声を得ていただけのこと。野球殿堂入りの候補から外され、やがて人々の記憶から消えて行くだろう。
 二度ない人生の、まだ半ばに居る彼。覚せい剤に手を出すきっかけは彼なりに有ったのだろうが、人は誰もが宿命を背負い、社会の規範を守りながら生きている。人生は一度だけだから、美しくも危険をはらんでいるのだ。生き方の清書≠ヘ一度だけ…と心に留めたいものだ。