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オホーツクつれづれ草

2016/03/05

集団就職、駅ホームの光景
 みんな頑張って生きて来た


 卒業式の時期になった。義務教育を終え、次に向け巣立って行く児童生徒の表情は明るく、父母にとっても感無量のものがあるだろう。この時期、ある光景を思い出す。
 58年前の紋別駅ホーム。列車から上半身を出し、母と抱き合う女生徒。座席でジッと俯(うつむ)いて涙をぬぐっている男子生徒。「元気でね」「手紙出すんだよ」「頑張ってね」と、やはり涙で一杯の父母の言葉。その中に、私の友達も混じっていた。勉強など眼中になく、野山を走り回り、藪に突っ込んで気を失うまで遊んだスキー友達。全てが光り輝く楽しい想い出ばかりだった。
 ホームと汽車の間はお別れテープで埋まった。互いに固く握り合っても、テープはやがて切れ、力なく線路に垂れてゆく。当時は当たり前だった中卒者の集団就職風景だった。
 みんな就職先で頑張ったのだろう。つらくて帰って来る人は殆どなかった。高校進学より就職する中卒者が多かった時代、決まった職場で長く働くことを、みんなが心に決めていた。


出会いと別れの繰り返し

 7、8年が経ち、私は紋別で民友新聞社に勤務した。最初の取材先が「紋別公共職業安定所」。就職係長のU氏が話してくれた。
 「君と同じ年齢で本州などに集団就職した中卒生は、多くがまだ同じ職場で働いているよ。職場からも信用され、可愛がられ、責任ある部署に就く人も多いんだよ。みな幸せになって欲しい」−と。
 さらに年月が経ち、紋別駅頭で見送った友と東京で会った。彼は小さな建設会社を経営していた。
 「独立したくてね、少しずつ貯金をして、20年たって、ようやく小型の建設機器を手に入れた。そこからまた頑張って小さな会社を立ち上げた。その頑張りの元は、集団就職で、みんなと別れた駅ホームの思い出だった。みんなに笑われないよう、夢中で働いたさ」
 遠くを見るように話す彼。それに比べて私は、高校に行かせてもらい、貧しいながらも楽しい大学生活を送った。彼のような生きるか死ぬか−の瀬戸際などとは全く無縁の時間を過ごして来た。
 でも長い時間が経ったある日、予期せぬ出会いがあって、それまでを振り返る話が出来た。その時私は、遠い昔離れ離れになった一本の糸が繋がったように思えた。糸の途中がどうであれ、今、この時、二人は昔の悪ガキになって、涙が出る程笑い合った。中島みゆきの歌ではないけれど、人生は出会いと別れの繰り返しなのだろうか。