オホーツクつれづれ草
差し出される傘もなく
不条理の中で命を絶った中学生
雪が激しく降る午後。学校帰りの小学生がポツンと一人、吹き付ける雪の冷たさに顔をゆがめながら歩いていた。あまりに足元がおぼつかないから、車を止めて
「家まで送ってやろう。さあ、乗っていいよ」
と言った。少年は少し後ずさりながら
「いい、歩いていく」−
と警戒の目で返事をした。これは私が不用意だった。家庭でも学校でも
「知らない人に声をかけられてもついて行くんでないよ」
と教えられている。特に車で声をかけられたら、一層警戒するだろう。それを忘れて、声をかけた私が軽率だった。少年にしてみれば、知らないオジサンから声をかけられ、緊張したことだろう。家に帰ったら
「車に乗ったオジサンに声をかけられた。でも断ったよ」
と親に告げ、親は、そんな我が子に
「これからも、そうするんだよ」
と言うのだろう。
昔…私の記憶。雨の日、どこかのおばさんが
「ホレ濡れるよ」
と傘に入れてくれた。雪の日、どこかのオジサンがオーバーなどで包んでくれ、温かい体温が心地よかった…。
遅くまで道草をしたり、喧嘩をしている時など、通りがかりのオジサンに大きな声で怒られ、説教を受けたことも多々あった。学校、父兄、一般の人の、自然発生的な協力体制が、見えない糸となっていた。
広島県の中学3年生の男の子が自殺した。学校には誤った万引きの記録があり、担任の先生から、それを理由に希望する高校に推薦して貰えなかった。面談の翌日、生徒は命を絶った。優秀な生徒で、友人たちの評判も良かった。
生徒は冷たく突き放された
一度の人生、一つの命。それが周囲の不条理な視線の中で消えてしまった。いたましくも悲しい事件だ。生徒にとってはあらぬ疑惑。しかし学校側は「事実」として冷たく突き放した。
この生徒の絶望感は果てし無く深かっただろう。自分の希望が、抗しきれない、しかも納得できない理由で砕け散ったのだ。生徒は、命を絶って潔白を示したのではないだろうか。絶望感にたたずむ生徒には、差し出される傘も、包んでくれるコートもなかった。周囲の、自然発生的な優しさもなかった。どこかで何かがこの子に味方してくれたら、この子の命は繋がったのではないだろうか。
「社会が連携して子供たちを守ろう」
という言葉が聞かれる。空念仏のような気がしてならない。