風紋記事
北大大学院で観光学を修めた福山貴史さんの論文「地域づくりにおける『負の存在』の資源化プロセスの研究」を読んだ。負の存在だった流氷を正の存在に変容させた地域の歩みをテーマにしている。やっかいものの流氷に美を見た村瀬真治氏、流氷が連れてきたプランクトンが豊かな漁場形成に欠かせないことを説いた青田昌秋氏らの業績が捉え直されている▼客体である流氷が隠している潜在的な価値を、主体である人が引き出した、とする論文のくだりに共感した。一般的に人の働きかけによって、モノが新しい機能や価値を見せる時、人の認識能力が新しい創造を行ったのだと考えやすい。だがそれは違う。例えば学者が、流氷が漁業にもたらす意義を見出した時、流氷というモノ自体がこれまで隠していた自らの可能性を顕在化させたのである。学問的に実証するということは、黙っている流氷に学者があの手この手でアプローチし、流氷や海洋環境がもつ「自然の言葉」を話させたということだ。学者はそれを翻訳しただけだが、その能力が高いのである。殺人現場で、死体に残された痕跡や現場の遺留品から、捜査官が真実を突き止めるのと同じだ。死体に語らせたのである▼マルクスは「資本論」で商品の交換過程においては商品と商品とが「商品語」で語り合っていると述べて、その言葉を翻訳した。それは商品自身が、自分と貨幣の生い立ちの秘密を語り出すことを指したのだ。自然科学も犯罪捜査も経済学も、物事の解明は、客体自身の重い口をいつか割らせる、という点では一緒である。美の探究さえも。(桑原)