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風紋記事

2015/04/15

 時間や空間が果てしなく続くのを「無限」と言って何か崇高なことであるかのように言う人がいる。哲学者カントも気の遠くなる宇宙の無限を人間の認識能力では捉えきれないと畏怖した。後続の哲学者ヘーゲルは量の無限なぞは所詮キリがなくただ続くだけだから悪無限だと笑った▼例えば何かを蒐集していると、どこまで行っても次々と欲しいものが現れてキリがないのに気づく。直線が果てしなく続いて終わらないのと同じで、いつまでたっても未完成で不完全だから悪無限なのである▼真の無限は円のようなものらしい。起点から出発し元の場所に戻るが、その終点を新たな起点としてまた運動が始まる。果てしがないが、循環するごとに内容は深まっていくような構造体である▼例えば優れた小説は一度読んで筋が分かっていても、読み直すたびに新しい発見がある。循環するごとに滋味が溢れる。音楽もそうだ。一流の芸術は真の無限を秘めている▼テレビのニュース番組で、原発や沖縄米軍基地問題などについて評論家が「国民一人一人が真剣に考えるべき問題です」などと言うのをよく聞く。国民に結論を丸投げしているが、言ってる本人も国民なのだから堂々巡りが続くだけだ。内容がないから悪無限の典型である▼テロにどう立ち向かうかを論議しているのに「平和の大切さを訴えればいい」と言うのも同じだ。平和の尊さを分かった上で具体策を論議しているのに「だって平和が大事だから」と繰り返してもキリがない。悪無限の言説を追放すれば論議がもっと前に進むと思うのだが。(桑原)