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「自分の発言に責任を持つ」ということは、どういうことなのか。特にそれが他の人の人格、尊厳に重大な影響を及ぼす時、それでも言葉を発する必要があるとするなら、発言者もまた、自己の尊厳を賭けて行動すべきである。その際、最低限必要なことは、発言者の出処進退を明確にすることである▼発言の出所が分からなければ、発言の内容が真実であるかどうか、明確にするための検証が出来ない。特に他を批判したり、何かを告発するような発言は、出所が明確でない限り信用はできない。それを怪文書という。社会のために真実を語ろうとするのであれば、検証可能な方法をとるべきだろう▼紋別市議会で、安養園の民営化に関する応募業者をめぐり、公平を欠く事象があったとする怪文書≠ノついて論議があった。しかしそれは不毛の論議であった。何故なら、文書の内容についての真偽の追跡が成されないままに、不確実性の中で、議員間の泥仕合が演じられたからだ▼神聖な議会で、姿の見えない暗い影に翻弄(ほんろう)されるのは見苦しい。しかも論争の渦に巻き込まれているのが、紋別市の顔でありリーダーである市長である。事は重大である。市長自身にとっても市民にとっても、不快な出来事と言わなければならない▼議会は、もっと賢明であって欲しい。何でもかんでも、表面に出すのが民主主義だとは言い難い。この種の情報≠ヘ、一度は議員の良識という濾過器(ろかき)を通し、品格を持って調査すべきことは粛々と行い、物事を明確にし、目の前の霧を晴らすことだ。火のない所に煙は立たないと言う諺(ことわざ)はあるが、不審火でも煙は立つのである。