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デスク記事

2009/05/01

この時期になると、少年の頃、雪解けの山肌に「福寿草」を見つけ、胸躍らせた記憶が蘇(よみがえ)る。黄色い花が、冬から目覚める前の周辺の佇(たたず)まいの中で、そこだけが自己主張をしていた。根は深く、凍った山肌から取り出すには根気が必要だったが、家に持ち帰り、家族の驚く表情を想像するのも楽しかった▼その福寿草も、今ではあまり話題にならなくなったように思われる。子供達が嬉々として「山から採ってきたよ」という言葉を、あまり聞かない。春先の、山の匂いと、ヒンヤリした空気を胸いっぱい吸いながら…などという遊びは、今の子供達には縁遠いことなのだろう▼以前、福寿草はもっともっと身近にあった。紋別公園など、旧図書館付近や青年の家周辺など、一帯は福寿草の群生地だった。雪で濡れた落ち葉の下などに、そっと隠れるように咲いていた。花を咲かせる前の、白い蕾(つぼみ)の福寿草を見つけると、喜びは倍になった記憶がある▼それから時が経ち、公園周辺は見事に整備された。しかし以前は、手入れされない、そのままの公園だったからこそ、色々な遊びも出来た。ブドウの蔓(つる)にぶら下がり空中を飛んで距離を競ったり、時にはケガもした。ヘビも居たし昆虫の種類も多かった▼整備された公園と、そうでない公園の一番の違いは何だろう。それは、山肌の厚さ、森の深さ≠ナはないだろうか。落ち葉が何層にも積もり、歩けばフワフワしたし、大小の樹々が視界を妨げ、向こうに何があるか想像をかき立てた。「無秩序の豊かさ」のようなものを、漠然と、子供心に感じていたのではないだろうか。福寿草の花言葉は「思い出」。黄色の花弁の彼方に浮かぶ遠い思い出を、今に求めることは出来ない。