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「ひとのふり見て我がふり直せ」の諺(ことわざ)は誰もが知っている。しかし実践が伴わないのもこの諺。多くの場合、自分に置き換えないのだ。我が家の庭の片隅に若干の野菜の種を植えようとした。気になったのが、トナリから庭に伸びてきた木の枝だった。どうしても日陰になってしまい、その時「ちょと配慮してもらいたいナ」と思った▼ある日、別のトナリの家が、自宅の庭に種まきをしていた。「寒いですねえ。芽が出るかしら」と、奥さんは笑顔で話しかけてきた。会話ついでに、トナリの畑を見学させてもらった。そして、そこから我が家の庭を見てハッ≠ニした。境界線に植えてある我が家の数本の樹の枝が、大きく相手の畑にかぶさっていたのだ▼トナリの畑に行って見て初めて分かった事実。大慌てで樹の枝の剪定をしたのは言うまでもない。陽が良く当たるようになったトナリの畑。今まで気がつかなかったのは、見方の角度を変えなかったから。自分サイドだけでなく、他のサイドからの物の見方の大切さを知った▼こんなことって、自分の気がつかない所で、日常的にあるのではないだろうか。なかなか他には注文≠オにくいものだ。だから自分の非は、他から言ってもらえない場合が多いのである。それなら、それを防ぐには自分で気をつけなければならない▼自分から他に対して気がつくこと。それをそのまま自分に問えば良いのだと思う。他への注文を、即自分に向けるのである。そして他からの目で自分を見つめれば、まあまあ何とかなるのではないか。それが出来なければ、他からこう言われる。「あいつは、人には注文をつけるけど、自分は何よ」ーと。しかもそれを陰で言われ、本人には届かない。気をつけるしかない。