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一番好きな言葉=「さよなら」。作家・井伏鱒二氏も書いている。「花に嵐の例えもあるさ。さよならだけが人生だ」・と。中国語で「再見」ツァイ・チェン。ロシア語で「ダスビダニア」、英語で「グッバイ」…。それぞれ余韻を含んだ、美しい響きがあるように思われる▼「別れ」は、人生の時間の積み重ねと、その間にお会いした様々な人との、色々な交わりとの別離を意味する。別れに至る前の時間的な経過は、連続性の中に在るために、心の中に漠然と、まだ見ぬ先のあることを予感している。従って特別な感情を持たない場合が多いけれど、「別れ」には、鋭利な刃物で切ったような、決別の瞬間がある▼人生に於いて、最も荘厳な瞬間とは言えないだろうか。決して生命が終わるときだけでなく、森羅万象との別れの瞬間を、誰もがその時、あるいはその後に知るのである。「さよなら」という言葉の響きに、それまでの多種多様な要因が、爽やかな一陣の風と共に、サーッと吹き消されるような、そんな爽快さもあるように思われる▼と同時に、一種の哀感や、抗し得ない、超然とした時間の流れをも感じる。井伏鱒二氏の「さよならだけが人生だ」とは、その言葉の意味する真実が、鋭い刃物のような結果だからこそ、最も信頼できる事象だと言うことではないだろうか▼振り返ってみれば、「さよなら」の連続の中に人生があったように思う。誰もがそうではないだろうか。「さよなら」がなければ、次もないのかも知れない。知らず知らず、別離を繰り返しながら、人は人生を歩んでゆく。最も美しく、意味の深いことば「さよなら」の4文字に、人生は集約されるのだろうか。井伏鱒二氏は16年前の6月に緊急入院し、7月に死去している。