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デスク記事

2009/11/12

 「死者に鞭(むち)うつ」という言葉があるが「死者を食い物にする」と表現すべき最近のテレビ放送。島根県の女子大生殺害事件は、遺体が部分的に発見されるという猟奇的な事件だけに、世間を驚かせている。しかしその報道の仕方は、被害者の人格への配慮が欠けたものになっている▼あまりにも不幸な形で死を迎えた女子大生。山中で発見された遺体の一部を「転がっていた」と表現したり、遺体の損傷部分を詳細に報道したり、若い女性へのいたわりとか、思いやりなど微塵(みじん)も感じさせない▼彼女は、死という残酷な現実と、世間に公開される人格を無視された報道という二重の苦しみを味わっているだろう。エスカレートする報道合戦の犠牲とも言え「報道の自由」とか「表現の自由」と言う言葉が空虚に聞こえる。自由という美辞を隠れ蓑(みの)にした、手前勝手な、興味主導の報道と言えるだろう▼それにしても、覚醒剤、連続不審死、市橋逮捕事件など、殺伐とした事件が続きすぎる。朝から晩まで、お茶の間に飛び込んでくる過剰な報道の量。テレビという映像媒体を通じて、何を報道し、何を控えるべきか。この辺で立ち止まって考える必要がありそうだ▼不祥事続きだったNHKだが、さすがに報道の仕方に落ち着きがある。それは視聴者の一人として歓迎したい。国民の「知る権利」とは、自己本位に全てを知る権利のことではない。他があって自己があることを忘れてはならない。その関係を保つための知る権利なのである▼この女子大生が気の毒でならない。その不幸な死もさることながら、その後も、何故こうも世間に晒(さら)されなければならないのか。それぞれが、この事件を自分の周辺に起きたことと考えてみるべきだ。