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「名月をとってくれろと泣く子かな」。小林一茶の、良く知られている句である。中秋の名月となった22日、札幌から車で帰る道すがら、クッキリと丸く、明るい月が一緒に居てくれた。車の向き方により、右に左に、あるいは正面から、後方から、静かな光を投げかけてくれる。とても神々(こうごう)しく、心が落ち着いた▼「円」は一番安定した形。角張らず、中心から一定の距離を保ち、全てと協調している。人間も見習いたいものだ。月は、地球上に居る人類を天空から見て何と思うだろう。「空気や水に恵まれ、生命体が生き続ける適度な温度を太陽から受け、人も動植物も、昆虫も細菌も、ありとあらゆる命が同居している奇跡の星・地球。それなのに、何が不満で争いごとをしているのですか?」。そんなことを思っているのだろうか▼「俺の場所だ」「いや元々俺のものだ」。島をめぐって互いが主張し合い、腹立ちまぎれに相手の国旗を踏みつけ、焼き払い、大声でデモ行進をする。その姿に協調の姿勢は微塵(みじん)もなく、ただ自己主張するだけの行為。品格なき集団と言えよう▼月はさらに言う。「理解する心なくしては何も解決しませんよ。過去を検証し、互いにどう在るべきか、何故理解しようとしないのですか?。腕力に訴えようとしているのですか?。もしそうならその心≠アそ全人類の敵なのです」と▼名月に手を差し伸べて触れることは出来ない。それでも尚、手前勝手に自己主張をし、一人勝ちしようとする哀れな姿を見るにつけ、丸い月に触れ、その平和な感触を味わいたい気がする。対立からは、前向きなものは何も生まれないことを、人類はもっと知るべきなのだ。超然と高みにある名月は、それを教えてくれている。