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デスク記事

2011/01/20

学生時代に旅行した神戸は、日本の大方の都市と異なって、異国情緒の漂う、しゃれた雰囲気を感じさせる都市だった。それから二十数年経った平成7年1月17日、阪神淡路大震災が発生し、その後私が訪れた神戸はこれがあの神戸?≠ニ、あまりの惨状に息をのんだ▼その廃墟は、太平洋戦争の東京空襲後の写真に類似していた。あの宝石のように光り輝いていた神戸の、あまりにも変わり果てた姿だった。北海民友新聞社の窓口に置いた義捐金箱には、71万4千円が入っていた。それを持参して神戸新聞社を訪れ、報道部長に手渡した▼一ヶ月半経過していたのに、鉄道はまだ寸断され、三宮駅からはバスに乗り換えた。瓦礫で細くなった道を、バスは頻繁(ひんぱん)にハンドルを切りながら進んだ。5391人が亡くなり、300万人の運命を変えた大震災。廃墟の中から、恐怖の中で死を迎えた人々の、ウメキ声が聞こえてくるようだった▼地震国日本。その後も日本列島は大きな地震が何回も発生し、多くの死傷者を出している。そして今も、東海沖地震など、いつ大地震が起きてもおかしくない状況だと言う。防(ふせ)ぎようのない自然災害の前に、人は成す術を知らない。大地震が起きないよう、ひたすら祈るだけだ▼神戸新聞社の報道部長がこんなことを言っていた。「小野さんの住むオホーツク地域は、確か地震層がない地域でしたね」と。私は「幸運にもそうです」と答えると、彼は「それは大きな財産です。こんな悲惨な災害が二度と起きないと信じられる地域は、日本列島で紋別くらいでしょ」と。