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デスク記事

2011/05/04

 危険が迫っても、それを感じない知覚の鈍化。日本人がそうなっている大きな原因は「安全な社会が保障されているのが当たり前。自分が危険に対応する責任はない」ー。無意識に、そう思っているからではないだろうか▼海外旅行で、声をかけられたら何の疑いもなくついていったり、車が近づいてきても、止まってくれるものと危険を回避する気もない。「原発は絶対安全」と、根拠もないのに思い込み、実際のところは無責任施設だった。東電も原子力保安院も、時の政府も他の関係者もあなたまかせ≠フ姿勢が今回の結果を招いた▼生肉を食べた児童が細菌による症状で死亡した。厚労省は「生肉用として流通する牛肉で、安全基準を満たすものはない。法律で禁止すべき」としている。今回の集団食中毒で、厚労省の管理の甘さ、流通業者、販売店の責任が問われている。しかし特に子供の食品について、最も気を配るべきは周囲の大人であろう。子供の食べ物に無防備では、責任は果たせない▼法律が網に目のように整備されていても、網の目からこぼれるものは数知れない。法だけでは守れない事を、肝(きも)に銘ずべきだ。業者を過信することも如何なものか。「上手の手から水」ということもある。いくら神経を配っても、見落とすこともあるだろう▼安全への最後の砦(とりで)は、結局は「自分」なのである。歩いている時、車を運転する時も、食べ物を目の前にする時も、いかなる時も危険はすぐ近くにある。そう思ってそっ≠ニ気を配るのが個々が出来る危機管理であろう。安全を他に依存するなかれ。