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デスク記事

2011/11/06

 「夕闇のたちこめた空間を、綿くずでも舞っているように浮遊している小さな生きものを、追いかけて遊んだ…」
 井上靖(平成3年死去)の小説「しろばんば」の冒頭の文章である。私が学生時代に出会った本の中で、忘れられない1冊である▼井上靖が少年の頃、天城湯ケ島で暮らしていた。その時の思い出を書いた自伝的な小説で、文章の中から野の草の匂いと、暮れてゆく夕焼けの光景が浮き出てくるようである。私が幼年時代を過ごした滋賀県・石山地区もまた、田圃(たんぼ)の広がる田舎だった。今で言う日本の原風景のような場所である▼「しろばんば」とは、北海道で言う「雪虫」のこと。綿毛のような、はかなさを伴ってフワフワ浮いている小さな虫。ある日突然空間に現れ、雪の季節の到来を告げる。誰がつけたか知らないけれど、雪虫とは、これ以上ない素敵な呼び名だと思う▼紋別ではすでに10月末から飛翔し、時には雪か?≠ニ思わせるように群れていた。本格的な降雪があると思わせたが、その後11月に入っても温かい日が続いている。雪虫も、異常な季節感を読み違えたのだろうか▼それでも、この季節になると書棚から「しろばんば」を取り出し、今まで何回も読んだ文章だけれど、また読み返す。行間に感じられる、私の、石山時代の原風景を心に蘇らせているのだ。乾燥稲の香ぐわしい匂い。それを背にして日向(ひなた)ぼっこをした時のこと。夕景に響く石山寺の鐘。それらが次々に蘇(よみがえ)ってくる。読書の秋。そんな1冊が有っても良いのだと思う。