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7年前、埼玉県北本市で中学1年生の女生徒が「いじめ」を受け自殺した。両親の訴えを9日、東京地裁はいじめと認定せず却下した。両親は「コップに水がたまり、最後の一滴があふれて自殺になった。裁判は、一滴の水をとらえて判断した」と無念さを語った▼この女の子は、長い期間に渡っていじめを受けていた。その跡がノートの文字に表現されている。心の優しい子で、誰かを非難するものではなく、苦しい心の内を記している。最後の日、それでも健気(けなげ)に登校したが、途中で最後の一滴≠ェあふれ、ビルから飛び降りた▼昨年10月、滋賀県大津市で中学2年生の男の子が同じく飛び降り自殺をした。「いじめ」と言うより陰湿な暴力、恐喝。彼もまた、長い間の苦しみに耐えられず、最後の一滴が命を絶つ引き金になった▼しかし、この2つの事件は、いじめた中学生と、いじめられた子の間の問題ではない。自殺に追いやった大きな要因は、社会全体にあった。この種の事件に共通する、学校、教育委員会の隠ぺい体質、そして無機質な裁判内容である。その陰で、小さな命と、親の無念さが闇に消えて行く▼市、県、文科省は「今後の防止、予防に取り組む」と、顔を曇らせながら言うが、その都度繰り返される言葉だ。親は、子どもに異変を感じたら学校に行かせる必要はない。そこはもう学ぶ場所ではない。教育関係者は、命がけで子どもを守れ。それが出来ず自己保身に懸命なら、貴方達は既に教育者ではない。子どもたちは、人生という最初の階段を、一歩登り始めたばかりなのだ。