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デスク記事

2012/11/02

 私の知人で、八王子で病院を経営している坂本俊雄氏(78歳)は、10月下旬になると、どうしても思い出してしまうことがある。戦時中、ソ連と国境を接する満州の鶴崗という所で少年時代を過ごしていた。1945年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破棄し、攻め入ってきた▼坂本一家は3ヵ月かけて新京まで逃げ延びた。新京には北方から多くの避難民が逃げてきていたが、ハルピンからの避難民は、逃げ出した時は500人くらいだったが、新京に着いたのは僅か10人ほど。子供、老人は途中で力尽き、多くは餓死だった▼坂本一家にも悲劇が襲った。元気だった母は栄養失調で寝たきりになり、2歳の妹はハシカとジフテリアにもかかり、衰弱していった。痩(や)せこけて寝てばかりいた妹が、死ぬ前日、よちよちと兄(坂本氏)の所まで歩き、倒れこむように抱かれた。次いで一緒に居た従妹(いとこ)たちの所へも歩き、一人一人に抱かれた。みんな、妹の病気が回復してきたと思った▼そして妹は翌朝、母に抱かれながら息を引き取った。坂本氏は「妹は死を予感して、最後の力をふりしぼって愛想を振りまいたと思う」と語っている。この日2人の幼い命が消えた。ソ連兵に追われながら、懸命に一緒に逃げ、生きて来た妹だった▼新京郊外の共同墓地に、2万人以上の遺体が埋められたという。坂本氏は12歳で日本に帰ってきた。坂本氏は言う。「戦後、日本の罪悪が強調されてきたが、妹の最期を思い出すにつけ、戦後満州で日本人が受けた残虐な行為は、何にも増す罪悪ではないのか」。