風紋記事
「社会の歯車になりたくない」とはかつて若者がよく言った言葉である。今や陳腐化し、大真面目で言う者がいれば鼻で笑われるのがオチだろう▼それでもアンチ歯車論は今も、個性尊重論に形を変えて幅を利かせている。「ほめれば個性が伸びる」とか「自分を信じれば夢はかなう」とかいったポジティブシンキングの自己啓発論や教育論の類だ。それ自体、完全に間違っているとは思わないが、時には「個性を殺して滅私奉公せよ」とか「自分に絶望せよ」というネガティブシンキングも必要だ。物事は陰陽の両面を備えてこそ真実たりうる▼聖書に次いで世界で読まれているというヒンズー教の聖典「バガヴァッド・ギーター」。親族同士が殺し合う戦場に赴いた若き王子が「こんな無益な戦いはしたくない」と剣を捨てる。神は命ずる。「殺せ。戦士としての義務を果たせ」▼「お前が今殺す親族も恩師も、お前自身も、すべてが私(神)であり、私の一部である。お前が殺さなくてもいずれ皆死ぬ。殺すべき時に殺してこそ戦士である」▼常識人にとって、これは戦争礼賛に聞こえるかもしれない。しかし聖典の真意は違う。かけがえのない一人の個性には神性が反映している。それゆえ同時に、宇宙を司る神の一部(歯車)として動かなければならないのだ▼非暴力の独立運動を貫いたインドのガンジーは、この聖典を終生愛した。我執も復讐も怒りも悲しみも一切を放擲(ほうてき)する教えに感動したからだ。我々は歯車ではあるが、歯車として作動することを通してのみ尊い個性を持てることを聖典は教えている。(桑原)