風紋記事
「野菜」ではなくて「お野菜」と言う言い方をよく聞く。なんでもかんでも「お」をつければいいってもんじゃないと思うが、その気持ちはなんとなく察せられる。野菜というヘルシーな食べ物に対する敬意の表れであろう。「お野菜」と言ってる人の表情もどこか得意げだ。「だってヘルシーなんだからしょうがねぇだろ」という不遜ささえ感じる▼米は日本人の主食であり、魂とも言えるソウルフードだから特別の敬意をもって「お米」とか「ご飯」と言うのは分かる。しかし野菜はそこまでの地位にはないと思う。だいいち野菜と言ったって範囲が広すぎる。「お」を使うのは、ここぞというモノや事柄に限定したいものである▼何かと言えば「生かされている」という言い方も最近よく聞く。自分だけで能動的に生きているのでない、周囲の人や自然に支えられ受動的に生かされているのだ、というわけだ。どんな状態も、能動・受動の両方で表現できるから、受動面を強調するのは別に間違ってはいないが、同程度にどうということもない。主体性や自己の責任を放棄し、自分以外の何か大いなるものに「生かされている」「包まれている」と思えば少し気が楽になるところが効能か▼野菜にさえ「お」をつけ、何かといえば「生かされている」と感謝する。両者に共通しているのは「へりくだり」の姿勢だろうか。自然の恵みの前にひたすら頭を垂れ、自己主張することを嫌う。日本人の美徳であるとされる謙譲の精神は、出る杭は打とうとするムラ社会の排他性と表裏一体であり、時として思考停止と同義でさえある。(桑原)