デスク記事
こんな話を聞いた。
「母が道立紋別病院に入院してました。少し痴呆がかかっていましたが、ある日トイレに行く時に、間違ってベッドと床に大、小を出してしまいました。母は大変なことをしたと、オロオロして居ました。私が後始末をしようと雑巾など持ち出しましたら、看護師さんが来てくれて「いいですよ、私がしますから」と親切に言ってくれました」▼「私は悪いですから、私がします≠ニ言うと、看護師さんはニッコリ微笑んで私は、これがしたくてこの仕事に入ったのです≠ニ言ってくれました。母は亡くなりましたが、私はあの時の看護師さんの言葉と、表情を決して忘れません」▼人は、どんな人でも最期は弱者になる。どんな権力を持っていても、大金持ちでも、人様のお世話を受けなければ、生きて行けない時が必ずやってくる。人生を閉じるとき、最後に望むことは、安らかな時間の経過ではないだろうか。そして、閉じてゆく過程こそ「人生の花道」なのではないだろうか▼シェークスピアは「人間がこの世に生を受けるとき、これからの長い人生を恐れ、本能的に泣くのだ」と語った。振り返って見れば、喜びより苦難の方が多いのが人生なのかも知れない。それなら最後の最後に、そっと手を差し伸べてもらえた時、それが花道を歩くと言うことではないだろうか▼全ての人にとって、明日は我が身。身体が不自由な状況になっていても、それは全ての人に共通する状態≠ナある。看護師さんが、おばあちゃんの下の世話を笑顔で行っている姿は、終末に向かって歩む一人の人生に、花で飾ってあげる行為と言えるのではないか。そしてその看護師さんは、生きてきた時間の中で、花を差し出す喜びを学んできたのだろう。