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デスク記事

2009/01/31

 葬儀場に来て、祭壇に向かって手を合わせ、ローソクに線香をかざし火をつけて、再度手を合わせる。そんな光景を良く見る。いわゆる偉い人≠ェ良く行う。その後遺族に向かってあいさつ。丁寧に見えるが、それなら参拝者全員が同じようにしたらどうなるだろう。大混雑すること間違いない。焼香台は後ほど回ってくるのである▼会場は後ろの席から埋まってゆく。「どうぞどうぞ、前に行ってください。いいえ、私は後ろでいいのです」。結局、前の席が空いていても、後ろには立っている参拝者もいる。議会議員や要職に就いている人などが前の席に座る。それが数学の方程式のように出来上がっている。そんな必要はないのに▼遺族は別として、焼香に順番があるのだろうか。名前が次々に読み上げられ、おもむろに祭壇におもむく。何故、いちいち名前を呼ぶのだろう。全ての参拝者は故人と何らかの因縁があって供養に来ているのはず。順次、整然と焼香すれば良いのではないだろうか。そして名前が呼ばれない人には「では順次ご焼香下さい」。まさに十把一ひとからげ=B時には、偉い人の名前を呼び忘れ、後で「大変失礼致しました」と詫びる光景も。前の席から整然と行えば良いと思うのだが▼電報の読み上げも不可解だ。出張など、都合で参拝できないから、遺族にお悔やの言葉を電報に託すのが主旨。電文と名前が長々と読み上げられる場合もある。特に政治家のお悔やみ電報などは、本人が知らないケースも多いだろう。事務所の人が気を利かすが、会場に名前を披露するのが目的?などと思ってしまう。本人が出席していながら電報が読み上げられるケースもある。人は常に何のため≠考えて、意味ある行動をとりたいものだ。