2009/03/05
昭和24年、地元金融機関として「紋別信用組合」が誕生。26年に信用金庫法の公布と共に紋別信用金庫が正式に発足した。産業会館の一角に商工会議所と共に入居し、不幸にも火災で消失した後、港町3丁目に移転。さらに本町4丁目に店舗を新築、そして昭和42年に現在の場所に店舗が建設された。地元の金融機関として企業、市民と共に苦難を乗り越えてきた60年である▼経済環境が目まぐるしく変化する今の時代。特に百年に一度というアメリカ発世界恐慌≠フ嵐が、このオホーツクにまで達し、全ての企業が影響を受けている。そんな時代だからこそ、地元金融機関である紋別信金は、企業にとっても市民にとっても「希望の星」であり、「頼みの綱」でもある▼その紋別信金が、突然の北見信金との合併。苦境にある地元経済だけに、市民は大きな衝撃を受けている。市民にとっては、まさに寝耳に水の出来事であり「それはないでしょう」と疑問を呈したくなる出来事だ。この困難な時代、誰もが、どの企業も歯を食いしばって企業存続に努力している、その一番苦しい時に、総元締めとも言える紋別信金の変身だ▼先月27日の総代会の席上「世界的金融危機で有価証券の評価損が発生した場合、信金中金からの優先出資を受け、自己資本比率を上げる」という手法が承認された。それも万が一の場合のセーフティーネットとしての手だてである。それから数日を経ずしての今回の合併劇。企業、市民が簡単には納得出来ないのも当然だ▼しかも公的資金の投入検討と同時進行で、北見信金との合併協議も行われていたと思われる。信金中金の公的資金の投入を、なぜ行わなかったのか、または投入して貰えない状況があったのかどうか。信金中金もまた、アメリカ発≠フ影響を受け、投入資金がショートする危険性があったのかどうか。また、今後各地の信金からの資金要請が多くなる可能性を懸念してのことか。それら要因がからんで、急転直下の合併劇となったのだろうか▼
近年の紋別信金職員の努力ぶりには頭の下がるものがあった。各種の資格を取得し、企業の経営指導も行うまでになり、具体的な指導力を発揮していた。そして理事長を始め全ての職員は常にこう言っていた。「地元企業、市民の皆様あっての紋別信金。共に悩み、助け合い、共存共栄で行こう」と。実際紋別信金は、リスク覚悟で企業のサイドに立ってきたし、信頼も得てきた▼西紋地域の経済の「核」でもある紋別信金がいくら対等合併とは言え、伝統の看板を降ろすことになった。その名前が消えるだけでも地元の人達が受ける衝撃は計り知れない。紋別信金は「対等合併だし、当方の経営方針は充分引き継がれる」と言う。しかし今まで「西紋地域を守る役割は重い。紋別信用金庫の名前はなくせない」と言っていたこととは少し矛盾する。その辺の整理も行って戴きたい▼合併の最終決定は、今後開催される総代会で行われる。理事者は、ここに至った経緯と、苦渋の選択ながら、北見信金との合併こそ今後の地域経済を守る最善の方策だったことを、充分納得できる理由を掲げ、筋道をつけて説明して戴きたい。総代は、その背後に地域企業と市民の人々の真剣な目≠ェあることを自覚して、対応すべきである。出来れば、総代会の時期を繰り上げて欲しいものだ▼そして大切なことは、紋別信金が企業運営の座右の銘にしてきた「地元企業、お客さんのために」という、温かい地元精神を、今後どれだけ活かし続けることが出来るかどうか・、である。西紋地域の住民を守る責務は、依然として紋別信金は背負っているのだ。